酒造革命 三代目 高田小三郎


高田小三郎 赤い気炎より

大いなる決断か、“狂気のさた”か―。

なにせ、酒造りに欠かせない仕込み桶や米を蒸す釜、甑、酒袋、果ては酒蔵まで売り払ってしまったのだから、こう大騒ぎされてもしかたはない。

話題の主は灘・西郷(大石)の中堅メーカー、金盃酒造。 空襲ですべての蔵を失った金盃が、戦後、二蔵を買収、一蔵を新築してようやく経営が軌道に乗り始めたばかりの三十八年、従来の杜氏による酒造りをいっさいやめて、近代的な四季醸造一本化に踏み切ったのである。

“酒蔵革命”といわれた四季醸造の推進者は、現社長で当時常務だった高田小三郎だ。小三郎は、二代目三郎の長男。 二十八年に大阪大学工学部発酵工学科を卒業したバリバリの技術屋である。

「酒造りも近代化しなければならない」という信念を学生時代から持っていた小三郎は、父親がしぶるのを説得。 四季醸造工場の完成を期して、三蔵のうち一蔵を売却し、二蔵をコンクリート敷きにして貯蔵庫に転用、蔵にあった酒造道具をいっさいがっさい同業者に売り払ってしまった。

「背水の陣でした。古い設備を残しておくと、新しい醸造法がうまくいかなくなったとき、後戻りしたくなるのが人情でしょう。 そんなことでは酒造りの近代化を推し進めることはできない。古い道具や蔵を売ったのは、いわば、自分自身に対する挑戦でした」と、三代目はその時の“決断”を語る。

晩秋から早春の間と決まっていた清酒の製造期間を、機械化と蔵全体を冷房することによって夏季でも造れるようにするという四季醸造法は、理論的には戦前から東京の醸造試験所や大学の研究所などで考えられていた。 しかし戦争の痛手もあって、実現は大幅に遅れた。ようやく三十六年になって、長崎県の黎明酒蔵が全国で初めて四季醸造を始めた。 とはいっても、この醸造法は、蔵の床に穴を開け、そこに桶を入れて床下を冷やし、夏にも酒を造れるようにしたもので、アイデアはユニークだが、酒造りそのものはまったく旧来のままであった。

次いで同じ年、京都・伏見の大倉酒造(月桂冠)が、全館冷房の本格的な四季醸造工場を稼働させ、灘では三十八年に、金盃酒造が伊丹の小西酒造(白雪)とともにオールシーズンの酒造りに着手。 翌三十九年には御影の白鶴酒造も加わった。

「蔵や機械はなんとかなったが、最後まで頭を悩ませたのが蔵人の問題だった」

小三郎は三十八年春、帰郷を控えた蔵人七十五人に一人ずつ会い、計画を詳しく説明。 二十人は季節労働から年間勤務に、労働時間は昼間八時間を中心にすることを話して協力を求めた。 しかし、蔵人の中には、親子代々、受け継いできた酒造りを捨て切れず、やりかけの仕事をほったらかしにして帰ってしまう反対組も少なくなかった。

この危機を杜氏四人の全面協力で乗り切った小三郎は、同年十月、一億五千万円を投じた新工場の完成を期して四季醸造をスタートさせる。 工場内にはなじみ深い木造りの道具はまったく見られず、代わって金属製の連続蒸米機や放冷機、自動製麹機が並び、その間を空気圧送するパイプが結んでいる。 古い蔵人たちには「これが本当に酒蔵なのか」と目を疑わせるような光景であった。

小三郎は、本来、企業秘密であるはずの新工場内部のすべてを、同業者に公開した。灘はもちろん新潟や広島など全国から酒造業者が連日のように見学に詰めかけた。

まさに企業生命をかけた四季醸造だが、当初は苦難の連続。 中でも、いち早く導入した酒のしぼり機が不完全で十分にしぼり切れず、ドロドロの酒カスが出来てしまい数千万円の損害を出したこともある。 「大勢の見学者がいる前で、しぼり機が故障し、背筋が寒くなったこともありますよ。」

小三郎の苦心は、やがて酒造界から認められ、金盃酒造の四季醸造は酒造近代化のモデルケースとなった。 “狂気のさた”とさえ言われた「酒造革命」は、いま灘酒造りの本流となっている。