赤い気炎 ― 造り酒屋の女社長奮闘記 著者 高田貴代子
高田貴代子プロフィール
- 昭和12年12月21日大阪府生まれ。
- 35年3月、聖心女子大学文学部卒業。
- 59年7月、金盃酒造株式会社監査役。
- 同11月、金盃商事株式会社代表取締役社長。
- 60年5月、金盃酒造株式会社代表取締役社長。
- 60年5月、灘納税協会常任理事、平成2年7月、神戸商工会議所助成経営者懇親会代表世話人等を歴任
厳しい試練の連続 赤い気炎より
阪神大震災
金盃酒造にとって、もっとも大きな転換期となったのが、平成七年一月一七日に起きた阪神大震災でした。 あの日、私は自宅の二階にある寝室で午前五時三〇分頃には目を覚ましていました。 この頃はちょうど、金盃の自販機が知らない間に酒屋さんから撤去されるというトラブルが続いていた時期に重なっています。 私はその対策に頭を悩ましており、毎晩眠れない日々が続いていました。
そしてあの大地震が突然襲ってきたのです。 すでに明け方になっていましたが、外はまだ真っ暗でした。 ふっと気付くと突然、象かゴジラのような大きな生き物が寝室に踏み込んできたような衝撃が走りました。 そして遊園地にあるぐるぐる回るコーヒーカップの中に放りこまれたような衝撃が走りました。 私はベッドから跳び起きて、部屋の真ん中に仁王立ちになり、足を踏ん張りながら激震のおさまるのを待ちました。 窓の外を見ると真っ暗でしたが、時折電線がショートしているのか、あるいは火災が発生したのか、雷のような稲妻がキラッと光っています。 地震がいったんおさまると、私は一階に寝ていた次女のことが心配になり、すぐさま階段の手摺りをつたって階下に降りました。
ところが娘はまるで何もなかったようにぐっすりと寝ているではありませんか。
しかもペットの犬も一緒になってぐうぐうと寝ているのです。
驚いて起きた娘が眠い目をこすりながら
「何?どうしたの?」
とケロッとしているのにはホッとするやら、あきれるやらでした。
幸い風呂場の浴槽には水が入っていましたし、台所には大量のウーロン茶のペットボトルの買い置きがありましたので、当分の飲料水には不自由しないだろうな、などとあれこれと考えていたら、またぐらぐらときました。 私の自宅は、神戸の六甲山麓にある御影地区の高台にあり、二階の窓から眼下には芦屋や神戸市内を見おろせます。 ちょうど自宅が火見櫓のような見通しのよい場所に位置しているので、神戸市内のあちこちで火の手があがるのが見えました。
地震の影響で交通がすべて不通になってしまっていたので、その日の昼前に徒歩で御影から金盃本社のある大石駅前に向かいました。 街はどこもかしこも悲惨な状態でした。 しかし私はそんな周辺の被害には目もくれず、一刻も早く酒の状況を確認しようと、瓦礫の中をかき分けて会社をめざしました。
やっとの思いで会社に到着すると、やはり目も当てられない状況でした。
古い酒蔵が崩壊していました。
酒の匂いがあたり一面にプンプンと匂っていました。
言葉では表現できないような衝撃を受けました。
コンクリートやプレハブ建築は意外にも頑丈で残っていましたが、木造建築はあっけないほどペシャンコになっていました。
私は倒壊した建物の間をかき分け、瓦礫の上を踏み越えて真っ先に酒は大丈夫だったかとひとつひとつ見てまわりました。
「こっちはダメ、あっこれは大丈夫だ」
無事だった酒をかき集め、一刻も早く酒を出荷できる体制にしなければなりません。
翌々日、瓦礫を片付けていると今後の対策が閃きました。 水道・ガス・電気がすべて止まってしまい、現場は完全にマヒ状態です。 まず、四季蔵内の原酒は無事なので、詰め口をしていただける同業メーカーを探してみようと思い、明石のメーカーさんに電話でお願いしました。
次にラベルです。瓶詰ラインによってラベルの大きさが違うので、一点物のラベルを大急ぎで作らなければなりません。 ラベル屋さんに問い合わせると、一月二九日にできるとのことでした。 普段は二点物(胴ラベルと肩ラベル)を使用していますが、不審に思われるといけないので、その間の事情は酒販店に了解していただきました。
そして、いよいよタンクローリーに原酒を入れて明石へ運びました。 二月一日には税務署に特別の許可書をいただいて「金盃」印製品を明石から本社に戻さず、東京へ直送しました。 関西地区は倉庫内で荷崩れした製品を一本一本集めて流通箱に詰め替えました。 卸問屋には、それぞれ蔵まで引き取りにきていただくというご協力をいただき、ようやく出荷体制が整いました。
神戸新聞やNHKが「金盃酒造株式会社二月一日出荷再開」と大きく報道してくれました。
後日、明石のメーカーの社長から
「さすがにあなたは早いですね。詰め口の依頼は金盃さんが一番でしたよ。一月一九日でしたものね」
と誉めていただきました。
窮地に置かれた時の私の根性は、父親譲りなのでしょう。
自分でも不思議なくらい対応策が閃くのです。
それからも、私と従業員達は心をひとつにして働き、地震の後片付けに精を出しました。
実は、金盃酒造は過去にも大震災をきっかけに、大きく飛躍できたという経験があるそうです。 それは大正一二年の関東大震災の時です。 東京支店が全滅の危機に直面したのですが、初代の高田三郎が「危機を商機とする」と奮闘したおかげで、飛躍を遂げることができました。 前年の大正一一年に東京支店を開設し、得意先を開拓するために積極的に掛け売りを勧めていた矢先の出来事でしたので、大地震の襲来で巨額の掛け売りも店も商品も全滅したそうです。 東京支店を開設して間もない頃でしたが、同業他社に先駆けて建築資材と商品を満載した船一艘を京橋南新川に差し向け、いち早く新社屋を建設して東京市民を驚かせたということです。
しかも日本酒が底をついて、不満が吹き出しそうな市民に対して金盃印をいち早く提供することができたのです。 関東一円の小売り業者は貴重な日本酒を買い付けようと、現金をもって金盃に押しかけました。 おかげで東京で有名な老舗からも一目を置かれる存在となったばかりか、震災で失った数十万円以上の損失を回収することができたのです。
確かに阪神大震災では、金盃酒造も多くのものを失いました。 規模にしても倒壊した分だけ小さくなってしまいました。 しかし企業のスリム化によって、実は利益率は震災前と変わっていません。 それならば小さくやって大きく儲ける今の方がいいと私は思いました。 結果的には、阪神大震災で私達はさらに大きくなったようです。 マイナスの環境からプラスに成長させるというのは、初代・高田三郎翁からの金盃の企業精神なのです。
セブンイレブン・ジャパンを誘致
平成七年一月に起こった阪神大震災で壊滅状態になった神戸では、企業も大打撃を受けました。 私はこの時神戸を再興するには、とにかく恥も外聞もなく、他から強い企業にやってきてもらわないと助からないと思っていました。
そんな時、金盃酒造の取引先である日本酒類販売から
「コンビニエンスストアのセブンイレブンが京都まで進出しているが、大阪や神戸にはなかなか入れなくて苦戦している」
というお話をお聞きしました。
特に神戸はセブンイレブンの競合であるダイエー系のローソンの壁が厚くて手も足も出ない状態だというのです。
これに対抗するためにセブンイレブンは神戸でオーナーを探しているが、なかなかキッカケがつかめないということでした。
そこで私は、神戸の復興の一助にもなると思い、セブンイレブンの神戸誘致を決断しました。
セブンイレブンの清水副会長に決意を伝えたところ、副会長は
「点よりも面が欲しいんです」
と言われました。つまり一店舗だけでなく、神戸市内で一五~六店舗前後を世話してほしいという意向でした。
一店舗だけでは運搬コストがかかりすぎるというわけです。
その年の七月八日のことです。 私はどうしたらよいのか分からず、一人で神戸市内の地図を広げて考えていました。 東灘区、灘区、中央区などの地図を広げ、電話帳で酒販店に印をつけてコピーしました。 金盃酒造と取引がなくても酒販店なら交渉相手になると思いました。 そして印をつけた酒販店一軒一軒を私は自分の目で見て歩きました。
当時の神戸市内は被災して間もなく、まだ街中はグジャグジャに壊れており、混乱状態が続いていました。 これらの店を私は全壊の店は赤、半壊状態は青、健全な状態に保っている店は黄色と、地図に色分けして歩きました。 軽自動車で走ったり、近い所は徒歩で見て歩きました。 それこそ雨の日もカンカン照りの日も歩くという、今から考えても涙が出てくるような作業でした。
こうしてできあがった地図を見て私は唖然としました。 JR神戸線の周辺は全て真っ赤でした。 地図は見事に地震の度合いを示していました。 その周りが青、山の上地区は黄色でした。 JRの本山駅あたりまで真っ赤に染まっていました。 できあがった地図をセブンイレブンに見せました。 百軒以上の資料を提供したわけです。 一五軒前後の店を開拓しろといわれても闇雲にあたっても仕方ないので、全壊状態を示す赤い印の店にターゲットを絞るようにアドバイスしました。
次のステップはどうやってセブンイレブンの志望者を集めるかという点でした。 私は神戸市内にある五〇店ほどの金盃会に声をかけてもらうという方法をとりました。 セブンイレブンの説明会を正式に行うという手紙も出しました。 三ノ宮で開いた説明会には百人以上が集まりました。
こうしてセブンイレブンは神戸にふわりと着地することができました。 現在、神戸市内には一〇〇店舗以上セブンイレブンができましたが、そこにはもちろん金盃を置いていただいております。 誘致活動は決して楽なものではありませんでしたが、私にとっても若者に人気のあるコンビニエンスストアという、新たな販路を開拓することができたのでした。
そしてこの年の暮れ、セブンイレブン・ジャパン本社に答礼のご挨拶に伺ったところ、ロビーホールで
「高田さん、高田さん。こっちこっち。あなたの憧れの人・伊藤相談役をご紹介してあげましょう」
という副会長の声に振り向くと大柄な紳士が立っていらっしゃいました。温和な表情で「伊藤雅俊」と書かれた名刺を差し出しながら
「地震はどうでしたか。大変だったでしょう」
と、お見舞いの言葉をいただいて、もう私の気持ちは嬉しくて舞いあがってしまいました。さらに副会長が
「一度で相談役にお目にかかれるなんて、あなたは果報者ですね」
と言われたので二度舞いあがってしまいました。なぜなら私が社長に就任した頃、ある方から
「イトーヨーカ堂の伊藤雅俊社長は商人の神様です。伊藤社長を目指して頑張りなさい」
と教えられていたからです。
金盃菊正宗の復刻
震災から二年後の平成九年、創業者の高田三郎翁を偲んで、往時の商標「金盃菊正宗」を復刻させました。 これは、翁によって明治三一年に商標登録され、戦前まで使用されていたのですが、戦後になって使用されないままになっていた商標です。 それが幸運にも震災がきっかけとなって復刻させることができたのです。
先の阪神大震災で倒壊した蔵を整理していた私は、商標登録のことが記述されている本を見つけました。 それまでは商標があるということは聞いていましたが見たことはありませんでした。
翌年、偶然にもその商標更新の通知がきました。 金盃・菊・鶴・亀・月・雲・風の花鳥風月が見事に配置された商標でした。 高い芸術性を見た私は、これはぜひ復刻させるべきだと思い、商標が初代の名前で登録されていたことからそれを継承し、正統「金盃菊正宗」を七〇年ぶりに復刻させました。
震災後、社長の席を息子に譲った矢先のことでした。 しかしこの商標が見つかったことで私は「ご先祖様がもっとやってくれ、頑張ってくれ!」と言われているのだと思い、社長に復帰しました。 混乱状態の現場を片付けながら震災後、業界の中でいち早く酒の出荷を開始し、価値ある商標だからこそ私自身の力で広く売りたいと先陣に立ちたいと思ったのです。
まず販売策の一環として平成九年一〇月二三日、朝日新聞全国版に大きな大きな広告を掲載しました。 商標権の告知を兼ねた意図を持たせたものですが、それよりも私の経営者としてのすべてを賭けたのです。 その内容は次のようなもです。
<いまの日本酒は、あまりにも時代に迎合しすぎていないだろうか。酒の本来の姿である懐の深い味わいと心を失いかけているのではないだろうか?
私たち金盃酒造は明治二三年に創業以来、自らも技術の革新や近代化に力を注ぎこみ、「四季醸造蔵」「生酒」の商品化に代表される、業界に先鞭をつける新技術、新商品を次々に世に送り出し、こうしたことが業界全体の活性化、発展に大きく寄与したことを誇りとしてきました。
しかしながら、いつの間にか日本酒は時代の流れに押され、嗜好の多様化などが『生一本』の精神に揺らぎを与え、気がつけば、高品質の酒を造るという気持ちより、商品の訴求を重視する、そんな流れに傾いていっているように思います。
酒を愛し、その奥深い心をこよなく愛する人たちのために、昼夜をいとわず手間ひまかけて、よいお酒を造り続けた時代。
いまだからこそ、そこに酒づくりの原点の姿を見つめ直したいのです。
明治・大正と愛され、親しまれた『金盃菊正宗』の復興。清酒を意味する商標「正宗」に、もう一度私の酒づくりの熱い心を托してあなたにお贈りします。>
一〇月二三日の朝、朝日新聞を見て世間の人達は唖然としたそうです。 私は「やったぁ!これでまた新しいお商売ができる…」と有頂天になりました。
しかしそこに突如として横やりが入ったのです。 同じ灘にある菊正宗が商標の差し止めを申し立ててきたのです。 各紙が「商標をめぐり七十年前の遺恨再燃-『菊正宗が金盃を提訴・ラベルの使用差止め要求』と囃したてました。
菊正宗側の主張は
- ①「菊正宗は当社の商標。菊正宗の名が付いた清酒は当社製との認識が全国的に定着しており、金盃菊正宗も当社製品と消費者に誤認される恐れがある」と商標権侵害行為の差し止め要求をする。
- ②金盃側が「金盃菊正宗」の呼称などを使用しないことなどを条件に和解が成立している。
と主張してきました。
一方、弊社は
- ①高田三郎名義の商標登録がなされている。
- ②和解書は当事者に無断でなされている。
- ③三十年以上経過しているので和解契約は終了している。
ときっぱり反論しました。
しかし、私はなぜこのような理不尽なことが許されるのかと不思議で仕方がなかったのです。
真相が知りたいと思ったので「金盃菊正宗」のルーツを調べてみようと考えました。
事件はまだ私の生まれる前のことですので、夫の叔母の出田節子に
「何か祖父様の遺文はありませんか?」
と訊ねてみましたところ
「こんなものがあったわ」
と次のようなものを見せてくれました。
「金盃菊正宗」の商標について
高田三郎誌
私が灘本場の酒造界に進出して刻苦罷勉して、本場の一流銘酒に負けない良酒の醸造に成功して十分の自身に充ちた時であった、
この酒に附ける銘酒の名称と商標に苦心したのであった、
私のこれに対する信念は、先ず従来にあるあらゆる銘酒の名称よりも優秀である事、品名商標より受ける感じの良い事、犯す事の出来ない気品を保つ事、将来にもこれ以上の名称商標は出ないという程の権威を持つもの…以上の条件に合う名称商標を求めるために私の苦心は筆紙に尽くせぬものがあった。
古い歴史をもつ灘酒造家の中にも最も古い名家の松屋というのがある。
昔から杜氏の唄にも「石屋木やでも灘松屋でも」と全国に謳われた松屋、昔は禁裏御用の銘酒を奉ったいう老舗松屋に伝わった、代表銘酒は金盃菊正宗であった、
明治初年より同家は昔日の威勢を失って事業も萎靡して醸造も僅かに形ばかりの状態となって居たのであった、
私はこの金盃菊正宗こそ私の上記の信念による条件に合致した商標であると確信したため同家の交渉の結果之が譲渡を受ける事となってここに本高田の基本銘酒として新しく登録を得たのであった。
そして叔母は
「これで分かったでしょう。私は金盃菊正宗の娘、金盃の娘ではありません。私が生き証人ですもの」
と言葉を続けました。
早速知人に電話で
「松屋さんってどこですか?」
と訊ねたところ
「松屋さんは灘・大石地方の豪商です。江戸時代の酒造株高を調べればどんなお家だったか分かりますよ。また松屋は松岡家・生島家からなりますが、松岡家の末裔が大石南町にお住みですよ」
と教えてくださいました。
ここまでくると、私の直向きな性格が俄かに活発に動き始めました。 東京中央法務局、神戸法務局、神戸市役所、教育委員会、市立図書館、市立博物館、区役所、西灘・西郷小学校、寺院、神社、灘五郷にある酒造資料館…に史料を集めにまわりました。
まず地所について、明治時代の登記簿を閲覧しました。 本高田商店所有だった三酒造場と一支店のうち松岡家三件、大邑家一件、鹿島家(利右衛門)一件から譲受となっています。 いずれもこの斯界の旧家です。
次に史料本を開いて江戸時代の酒造株高を調べました。すると次のようになっていました。
☆江戸中期・寛政五年(一七八九年)二月の酒造株高
松屋一統の酒造株高
- 松屋徳右衛門(大石・魚崎)
- 五、二二九、七一六
- 松屋甚左衛門(大石・御影)
- 二、〇四三、二〇〇
- 松屋又左衛門(大石)
- 一、三二七、五〇〇
- 松屋甚右衛門(大石)
- 一、一三八、六〇〇
- 松屋重助 (大石)
- 一八〇、〇〇〇
- 計
- 九、九一九、〇一六
☆灘五郷における大手酒造家の酒造株高(二〇〇〇石以上)
- 吉田屋喜五郎(住吉・御影)
- 六、八二二、三〇〇
- 木屋市左衛門(大石・石屋)
- 六、二〇七、七〇〇
- 嘉納屋彦左衛門(御影)
- 五、五〇一、七五〇
- 松屋徳右衛門(大石・魚崎)
- 五、二二九、七一六
- 才右衛門(今津)
- 四、八一八、六〇〇
- 米屋庄兵衛(新在家)
- 四、四五四、八七六
- 吉田喜平次(住吉)
- 四、二七三、四七六
- 米屋三郎兵衛(魚崎)
- 四、一八七、三九一
- 嘉納屋治兵衛(御影)
- 三、九一五、七五〇
- 木屋長松(大石)
- 三、六二五、三〇〇
- 與左衛門(今津)
- 三、二七一、五二〇
- 林家直次郎(八幡)
- 二、七〇〇、〇〇〇
- 嘉納屋治郎右衛門(御影・石屋)
- 二、六九五、八〇〇
- 塚本屋八左衛門(東明)
- 二、五二〇、一〇〇
- 柴屋亦左衛門(東明)
- 二,五一〇、一〇〇
- 吉坂屋又左衛門(大石)
- 二、三五九、九〇〇
- 舛屋庄三郎(石屋)
- 二、一九九、一二〇
- 松浦屋庄兵衛(大石)
- 二、一六六、七五〇
- 米屋喜兵衛(住吉)
- 二、一〇五、四〇〇
- 木屋喜兵衛(石屋)
- 二、〇八二、八六〇
- 花木屋長兵衛(新在家)
- 二、〇五四、〇〇〇
- 松屋甚左衛門(大石・御影)
- 二、〇四三、二〇〇
以上
☆大正一四年度灘五郷における大手酒造家の酒造株高(五〇〇〇石以上)
- 辰馬本家酒造(株)(白鹿)
- 三七、七五〇
- (株)本嘉納商店(菊正宗)
- 三七、二三一
- 西宮酒造(株)(日本盛)
- 三一、一五六
- 山邑酒造(株)(桜正宗)
- 三一、〇二六
- 嘉納合名(株)(白鶴)
- 二四、九二三
- 石崎(株)(沢の鶴)
- 二〇、七一三
- 若林合名(株)(忠勇)
- 一九、五七四
- 花木三二郎(冨久娘)
- 一九、三九〇
- 安福又四郎(大黒正宗)
- 一二、九四七
- 長部文次郎(大関)
- 一一、九二九
- 泉 仙介(銀釜泉正宗)
- 一〇、六七二
- 辰馬悦蔵(白鷹)
- 九、八九〇
- 高田三郎(金盃菊正宗)
- 八、五一六
- 小西新右衛門(白雪)
- 八、四五一
- 覚心平十郎(国産一)
- 八、〇一六
- 大塚合名(株)(金露)
- 七、五〇八
- 安藤安太(鼓正宗)
- 七、三一〇
- (名)菅野商店(菅公)
- 七、二八〇
- 大倉恒吉(月桂冠)
- 七、〇五一
- 小網與八郎(世界長)
- 六、四一六
- 泉 喜之介(獅子牡丹)
- 六、〇一三
- 辰馬利一(鰹正宗)
- 五、四七七
- 安福武之助(盛長)
- 五、二五〇
以上
江戸中期における松屋一統の酒造株高は、灘五郷の仲間内で高順位で、また江戸時代の流行銘酒録には基本商標菊鶴(菰樽の標)が松屋のものとして掲載されています。
一方、地方史「なだ」によると、松岡一族は嘉永四年(一八五一)には松屋甚右衛門が二隻、松屋又左衛門が一隻、松屋平左衛門が一隻、松屋八三郎が一隻の合わせて五隻の樽廻船(江戸への下り酒を運ぶ船)を有してその繁栄を誇っていることが書かれています。
さらに私は大石南町に今もある松岡家をお訪ねしました。初老の温和なご当主が出てこられました。
「こちらは昔の杜氏の酒造り唄に『石屋木やでも灘松屋でも』と謳われた、禁裏御用の銘酒を奉ったという老舗の松屋さんの末裔でしょうか」
とお聞きしましたところ
「そのとおりです。そして松岡一門は与謝蕪村の高弟としても有名なのです。これをあなたにあげましょう」
と小冊子をくださいました。
与謝蕪村と灘松屋
その小冊子には、
松岡一門の俳人 士川-士喬-士巧-士流
「六甲連山を超えてくる寒風と摩耶の峰の颪をうけて、しかも特殊の成分を持つ宮水と三田米で醸される清酒は、ことに豊醇でいつのころからか灘の生一本と称えられ、天下の上戸党に限りない愛着をつないできた。醸造の発達の歴史の特に古い銘酒所、灘五郷の一でその西の端にある大石において、醸造界に君臨し、斯界に幅をきかせたものに松岡一族がある。松岡家はすなわち灘地方における豪家で、その分家合わせて八軒にのぼり、これを松岡一統と称えいずれも酒造をもって家業としていた。一門みな隆昌大いに繁栄したもので、しかしてこの松岡一門からは明和・安永ごろから文化・文政年間に至る間に士川・士喬・士巧・士流など有名俳人を生み、その以後も若人など代々風雅の志浅からぬ人々が相次いででた。
酒造家としてさしも権勢をほこり、世に聞こえた松岡一族の家業も、幕末黒船の来航によってにわかに国内の上下が目覚めたのと、一方謹皇憂国の志士らの熱血をもって成就した明治維新の聖業は、旧弊を打破しあらゆる文物制度の上に一世紀を劃したのであった。が、その維新という冷たい風にふかれて、家運ようやく傾きそめて松屋一統もしまいには伝業をすて、転業せざるを得なくなったといわれる」
と書かれていました。
三郎翁の遺文に「……老舗松屋に伝わった、代表銘柄は金盃菊正宗であった、明治初年より同家は昔日の威勢を失って事業も萎靡して醸造も形ばかりの状態となっていた。 …同家と交渉の結果が譲渡を受ける事となって…新しく登録を得たのであった。」とあることと合致することが確認でき、長年の懸案事項が解決できたとの思いで安堵いたしました。 同家から醸造権・事業権・商標権をあわせて譲り受けていることになります。
さらに、松岡家の家系図と共に蕪村真筆の松岡家の人達に宛てたお手紙を拝見しながら蕪村のお話を聞かせていただきました。
篝して くらき鵜飼が うしろかな
古文書を読めないのが残念でしたが、俳画の素晴らしさと揮毫に嘆息いたしました。
菜の花や 月は東に 日は西に
菜の花や 摩耶を下れば 日のくるる
畠打ちの 目に離れずよ 摩耶ヶ獄
蕪村
(安永三年三月二三日即興・一七七二年)
これらの俳句は、京を下り堺の浜から船に乗り、大石の浜に着かれた蕪村翁が松岡家の五仙窓別邸で銘酒を酌み交わしながら興じられたそうです。
松岡士川家は松屋一統の総本家といわれ、代々甚右衛門を襲名しており、中興三代目の甚右衛門が士川です。 士川は五仙窓と号し 通称伝助、灘地方における俳諧好者で、また同方面においての俳諧の棟梁でもあったといわれています。
乗鞍に花の散夕べかな 士川
見えそめてより霞む酒旗かな 几董
(寛永元年六月二日御影南軌帝にてとある。南軌は自分で大船を持ち、自造酒を江戸に運送したことが几董の日記に書かれています)
川尻や入り船時の仰々し 士喬
いつしかに月の夜明けて梅の花 士巧
三郎翁が、このような由緒あるご先祖をもつ名家の銘柄を譲り受けられ、名実共にあらゆる銘酒を凌駕する第一位のものとせねばならぬとの固い信念のもとに全精力を傾注され、 一五年後の昭和二年には造石高一万石を達成し、江戸・寛政時代の松屋一門の総酒造株高をクリヤーされたことは画期的なできごとで、果然江湖愛飲家湧くが如き称賛を博し、酒造界亦驚嘆の眼を瞠り.注視の的となったことは当然のことです。 このようにしてできた「金盃菊正宗」に部外者からクレームを受けるいわれは全くないと考えるのです。銘酒『金盃菊正宗』の健やかに成長することを願っています。